長崎にて~あのとき、あれは止められた

 被爆70年に合わせ、長崎に行ってきた。街中は、観光客とこれに合わせた各種行事に参加する人たちでいっぱいだ。バスも、電車も。被爆体験を語り継ぐ活動をしている人に何人か会ったが、高齢化と体験の風化は広島と共通する悩みのようだ。特に長崎市は、学校の教室で被爆体験を語ったり原爆投下を教材とすることが市教委の方針で長らく御法度だった時期があるとのことで、記憶伝承の難しさがあるようだ。それでも、語り続けようとする人、記憶に残そうとする意思は確実に存在する。

 ところで、長崎原爆投下への道程を仔細に見て行くと、それは不幸な偶然の連鎖と日本側の不作為の結果であったとしか思えないという結論に至る。

 米軍の第1目標が小倉(北九州市)であったことは、よく知られているとおりだ。8月9日、テニアン島を飛び立った原爆搭載のB29ボックスカーが小倉上空に到達したのは9時45分だった。しかし、曇天に加え前日の八幡製鉄所爆撃による残硝煙が視界を遮蔽し、地上を視認できない。地上側が煙幕としてコールタールを焚いたという説もある。投弾は目視によること、というのが司令部の命令だった。このためボックスカーは小倉上空を3度旋回し、爆撃航程を復航したものの、けっきょく市街地は視認できなかった。次第に高射砲による対空砲火も激しくなり、日本側の迎撃戦闘機発進も機上レーダーで確認された。このためボックスカーは投弾を断念し、小倉上空を離脱する。この間、45分。かなりの燃料を消費し、機体の燃料システムの故障もあり、帰路の燃料が不安になった。

 ボックスカーが長崎上空に到達したのは10時50分だった。しかし長崎上空も曇天で目標を視認できない。機長のスウィーニー少佐の頭には、燃料不足による投下断念や命令違反となるレーダー爆撃という選択肢がよぎった。が、爆撃手が一瞬の雲の切れ間を報告、即座に爆撃航程に入り、投弾は実行された。爆弾の炸裂は11時2分。投弾地点は本来の目標から3kmもずれていた。このときボックスカーは燃料切れ寸前。帰路は米軍占領下にあった沖縄に緊急着陸して燃料を補給し、テニアンに帰還している。

 あのとき、雲間が切れなければ。あるいは、スウィーニーが命令に忠実な軍人で、命令違反となるレーダー爆撃はもちろん、所期の目標地点以外に投弾することも良しとしないタイプの人物であったなら・・・というようなイフを言いたいのではない。指摘したいのは、少数のB29が白昼堂々、1時間以上も九州北部上空をうろついていたにもかかわらず、迎撃はおろか、効果的な退避指示出せなかった日本側の防空意識、住民保護の意識は一体どうなっていたんだ、ということである。広島の教訓から、B29が白昼に単機または少数で侵入してきた場合には、「新型爆弾」の可能性があることは認知されていた。にもかかわらず、長崎市の空襲警報は先行した気象観測機が去った時点で解除され、市民は通常の活動に戻り、熱線と爆風を浴びた。広島と同じ轍を踏んでいるのだ。レーダーがほぼ皆無だった日本の防空体制で雲上のB29を捉えることは困難だったことは差し引いても、あまりにお粗末な結果ではないか。

 実は日本軍は、テニアンを拠点に正体不明のB29特殊部隊が活動中であることを、無線傍受によって1945年6月頃にはつかんでいた。そして、8月6日も、9日も、この特殊部隊が日本に接近してくることを無線傍受により探知していたのだ。にもかかわらずの、あの惨禍である。上述のボックスカーが雲の切れ間を探し求めて飛び回っていた経緯とも合わせ、日本軍の防空意識、住民保護の意識はあまりに低かったと言うほかない。それは、沖縄戦で県民が身を以て体験した「軍隊は住民を守らない」という日本軍の本質にも通底することではないだろうか。

 はっきりと言えることは、長崎の原爆投下に関しては、あのとき、あれは止められた。少なくとも、被害をもっと小さくすることができた。そのことである。
【Ocean Radio@2015】





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